これが世界一の酔い心地か! ウイスキーはニッポンが最高峰!

北海道札幌市から西へ約60キロ、積丹半島の付け根にある街・余市町。この決して大きいとは言えない街が今、世界中から注目を集めており、外国人観光客も後を絶たない。彼らの目的は、ウイスキーだ。余市で生み出されるウイスキーにはどんな魅力があるのか。ニッカウヰスキー株式会社北海道工場工場長三明稔氏にお話を伺うと、「本物のウイスキーをつくる」ことに人生を賭けた男・竹鶴政孝による壮大な物語が見えてきた。

 

Text by Hiroya Maeda

 

日本産の「本格ウイスキー」をつくる

NHK朝の連続テレビ小説で一躍有名になった「マッサン」こと、竹鶴政孝が巻き起こした奇跡の始まりは、今から100年ほど前にさかのぼる。

1920(大正9)年、スコットランドへの「ウイスキー留学」を終え、現地で出会った妻リタとともに帰国した政孝は、勤務先の摂津酒造に「日本でウイスキーがつくりたい」と申し出る。しかし、時代は第一次世界大戦後の大恐慌。資金に余力のない摂津酒造にとって、ウイスキーへの参入は荷が重く、政孝がまとめ上げたウイスキー醸造計画書は受け入れられなかった。政孝は、世話になった摂津酒造を離れる決心をする。

サントリーの前身である寿屋の鳥井信治郎との出会いは、摂津酒造を退社してしばらく後のことだ。

「日本人のための葡萄酒」といわれるほど上品な色みと甘みをもつ赤玉ポートワインを開発した信治郎は、「国産ウイスキー」の可能性をも予見していた。スコットランド留学時代の政孝の熱意を耳にした信治郎は、ぜひこの男に会わねばと、訪ねてきたのだという。

政孝は、信治郎の支援を受けるかたちで、国産ウイスキーの開発に携わることができるようになった。

しかし、「日本で本格ウイスキーをつくる」という政孝の信念と、「日本人の口に合い、日本人に受け入れられるウイスキーをつくる」という信治郎の信念は、やや方向性を違えていた。

国産第1号のウイスキーをつくるべく、日本のどこに蒸溜所を構えるべきか。政孝は「本場スコットランドの気候に近い地」として、北海道・余市を推した。一方の信治郎は、輸送コストがかからず、消費者も来訪しやすい大阪府・山崎を提案。2人はぶつかり合った。

「政孝は、『ウイスキーは自然がつくるものだ』という思いを強く持っていました。だからこそ、日本のなかで本場スコットランドに気候が最も近い地はどこかと徹底的に調べ、北海道の余市という土地を見つけた。しかし信治郎氏に反対され、妥協したのでしょう。結局、国産第1号は山崎の地でつくることに落ち着きました」(三明氏)

6年の歳月ののち、1929(昭和4)年、政孝と信治郎はついに、国産第1号ウイスキー「サントリーウイスキー(通称:白札。現在のホワイト)」を生み出した。

そして寿屋との契約満了後、政孝は自身の理想を追うべく、北海道・余市へと旅立つ。

 

政孝が惚れ込んだ土地・余市

「日本でスコッチウイスキーをつくる」。政孝の野望を叶えるのに、余市はもってこいの場所だった。

涼しいなかにも湿気を含む気候。そして春になると周囲の山々の雪解け水が注ぎ込む余市川には、常に美しい水が流れている。加えて石狩平野では、麦芽にスモーキーな香りをつけるピート(泥炭)も手に入り、蒸溜に必要となる石炭も夕張から運んでくることができた。

「余市はまさに、日本のハイランド(スコットランド北部。モルトウイスキーの蒸溜所が多くある地域)といえます。ピートは低い木や草が炭化したものが何千年と蓄積しなければ使えません。ピートが手に入る環境は日本でもそう多くありませんでしたが、余市はスコットランドと似た気候だから、本場のスコッチウイスキーをつくるのに必要なピートも労せず手に入る。さすが、政孝が調べ上げ、惚れ込んだ土地です」(三明氏)

 

「リンゴジュース」が命綱

1934(昭和9)年、念願である余市の地でウイスキーづくりを始めた政孝。ウイスキーをつくるのにこれ以上ない環境を手に入れることはできたが、そのウイスキーが「お金」になるには何年もかかる。原酒を熟成させているだけでは、収入はない。ウイスキーを出荷して収入を得るまで、食いつながなくてはならない。

政孝は余市の特産品であったリンゴに目を付けた。リンゴジュースを製造・販売し、経営資金を稼ぐことにしたのだ。

まだウイスキーを納品していないから、社名に「ウイスキー」という名前をつけられない。ひとまず社名を「大日本果汁株式会社」とし、リンゴジュースを売りながら、コツコツと原酒をつくり続けた。

しかし「経営資金を稼ぐため」のリンゴジュース販売。なかなかうまくはいかなかったようだ。

「本来は、ウイスキーを納めるまでの『食いつなぎ』のはずだったリンゴジュースづくりに、政孝持ち前の『本物へのこだわり』が出ちゃったんですよね。まだ“ジュース”すら一般的でなかった時代に、『果汁100%の高級リンゴジュース』をつくってしまった(笑)。今なら多少高級でも『果汁100%なら』と買ってくれる人は多いでしょうけど、当時はまったく売れませんでした。消費地となる東京も遠かったですし」(三明氏)

生活費を稼ぐためのリンゴジュースも売れない。そうかと言って後にも引けない。傍から見れば大ピンチの局面だが、政孝の「本物へのこだわり」は、大きな「信頼」となって周囲の人を惹きつけるようになっていた。政孝のウイスキーづくりを応援すべく、多くの出資者が集まっていたのだ。

政孝が仕込んだ原酒は、静かに静かに、樽のなかで熟成が進んでいった。

そして1940(昭和15)年。ついに余市でのウイスキー第1号が完成する。そのウイスキーには、当時の社名「大日本果汁株式会社」の略称である「日果(にっか)」を冠し、「ニッカウヰスキー」という名がつけられた。

 

まったく売れなかった「第1号」

政孝が募らせていた長年の思いがかたちとなったニッカウヰスキー。創業から6年目の1940年5月、満を持して店頭に並べられた。果たして消費者の反応と言えば……。

「まったく売れませんでした。政孝にとってのスタンダードだったスコッチウイスキーは、スモーキーな香りの色濃いものでした。それが当時のウイスキーを飲み慣れない日本人にとっては、『煙臭い』としか感じられなかったようです。本格的すぎて、当時の日本人の舌が追いつかなかったんですね」(三明氏)

理想のウイスキーを完成させたのに、そのウイスキーが消費者に受け入れられない。政孝のショックは計り知れない。

しかし、そこで信念を曲げないのが政孝。我を通して余市に工場をつくり、ジュースという言葉も浸透していなかった時代に果汁100%ジュースを広めようとした男だ。大衆に迎合せず、ひたすら「本格ウイスキー」をつくり続けた。

そんな政孝に、神風が吹く。

1941(昭和16)年、太平洋戦争が勃発。戦争が始まると、「酒も軍需物資として必要だ」と、海軍がウイスキーを大量に買い付けたのだ。

もちろん、適正価格での取引のためそれに見合ったお金が入ってくる。加えて「軍需物資」ウイスキーをつくっている政孝には、ウイスキーをつくるための原料が安定して供給されるようになる。

せっせと海軍にウイスキーを納めながら、新たなウイスキーをつくり続ける。好循環のサイクルに入った。

1945(昭和20)年、戦争が終わる。進駐軍が来て、西洋の文化も入ってくる。ウイスキーはもちろん、その西洋文化のひとつ。ニッカウヰスキーにとってはさらなる追い風が吹いたかに見えた。

しかし――。

 

安易な「ブーム」には乗らない

たしかに戦後の日本には、爆発的な「ウイスキーブーム」が訪れた。しかしニッカは、そのブームに乗り遅れてしまう。

なぜか。そこにはやはり、政孝の「本物へのこだわり」がある。

「戦後すぐにブームとなったウイスキーは、政孝から見れば『粗悪品』でした。価格は安かったのですが、その中身は、安い原酒を最低限だけ入れ、あとはアルコールを多く入れてごまかすというもの。『そんなものはウイスキーではない』と、政孝は流行っている味に手を出さなかったんです」(三明氏)

「ウイスキーとはかくあるべき」という信念があるからこそ、政孝は、売れるとわかっていても、安いが粗悪なウイスキーをつくらなかった。

しかしこのこだわりが、皮肉な状況を生む。

ニッカの本格的で高級なウイスキーは売れない。ライバル会社の安くて薄いウイスキーは売れる。必然的に、ニッカの財政はひっ迫する。

原酒は大量にあるのに、お金がない。そんなニッカに、「お金はガッポガッポ儲かっているけど、原酒が足りない」ライバル会社が、原酒を買い付けに来る。資金をつなぐためには、売らざるを得ない。

ニッカ自身が安くて薄いウイスキーをつくればそれでよい話なのだが、政孝のこだわりがそれを許さない。

見るに見かねたニッカの出資者は政孝に、安くて薄いウイスキーを出すよう求めた。

政孝は、渋々応じた。ただし、こだわりの強い政孝がただで応じるわけがない。

「政孝が試みたのは、“最大限に原酒を用いた”低価格ウイスキーをつくることでした。当時の税制では、『三級ウイスキーは原酒5%未満』とされ、薄いぶんにはどれだけ薄めてもよかった。だから各社、『いかに薄いウイスキーをつくって儲けるか』に腐心していたわけですが、政孝は『いかに三級ウイスキーの最大限である5%に近づけるか』を考えたのです」(三明氏)

そしてここでも、営業陣の努力と、政孝の信念が神風を呼ぶ。原酒の割合を最大限に引き上げ、また無理をして値段を他社並み下げたことで「三級ウイスキーでもここまでおいしいのか」と、政孝のつくるウイスキーに心をつかまれた消費者は、政孝の「本気」であるニッカウヰスキーを飲んでみたくなる。安くて薄いウイスキーによって、ウイスキーの味には慣れ出していた消費者は、遅まきながら、ニッカウヰスキーのおいしさに気づいたのだ。

ニッカウヰスキーはようやく、軌道に乗った。

 

ブレンデッドウイスキーの開発へ

「戦後」が終わり、高度経済成長期に入った1959(昭和34)年。余市でのウイスキー製造が順調ななか、政孝は「次の一手」を考えていた。

発芽させた大麦からつくるモルトウイスキーと、大麦以外の穀物(小麦やトウモロコシなど)からつくるグレーンウイスキーとを調合した「ブレンデッドウイスキー」の開発である。

本格的なブレンデッドウイスキーをつくるには、質の高いグレーンウイスキーが欠かせない。政孝は兵庫県・西宮に、日本初のグレーンウイスキー製造工場を建てた。折しも、創業時からの大株主のひとりが引退することになり、政孝の知人でもあった朝日麦酒(現・アサヒビール)初代社長の山本為三郎に株を譲渡。朝日麦酒がニッカウヰスキーの筆頭株主となり、万全のバックアップ体制が整っていた。

為三郎は政孝の「本物へのこだわり」に大きな理解を示していた。1ドル=360円、イギリスポンド相手でもかなり円が弱かった(1ポンド=1008円)時代。為三郎は当時のお金でも数十億円という金額を援助し、1963(昭和38)年にグレーンウイスキーをつくるためのカフェスチルという蒸溜機をイギリスから買い付け、西宮工場に設置した。

「本格的なブレンデッドウイスキーをつくる」という政孝の情熱と、それを支えた為三郎。2人の思いは、「ブラックニッカ」の大ヒットとなって結実する。

政孝の進撃は止まらない。次に手掛けたのは、余市に続く「第2の蒸溜所」の建設だ。1969(昭和44)年、宮城県に宮城峡蒸溜所(仙台工場)を竣工。現在でもニッカの主力工場としての役割を担っている。

「仙台はスコットランドのローランドに気候が近く、ソフトなモルトウイスキーが生まれやすい。ブレンデッドウイスキーはモルトウイスキーの種類が豊富であればあるほど味の幅が広がりますから、余市とは気候の違う土地に新たな蒸溜所をつくることによって、新商品の幅もまた広がります。政孝の慧眼には本当に驚かされます」(三明氏)

 

苦境を超え、「本物を超えた本物」に

しかし諸行無常。長く続いたウイスキーブームにも陰りが見え始める。

政孝が他界し、1980年代に入ると、焼酎やワインが台頭する。さらに追い打ちをかけたのが、1989(平成元)年に来日した、当時のイギリス首相・マーガレット・サッチャーだ。一級から三級までランクの差を設けている日本のウイスキー等級区分に「こんなことをしているから(イギリスの)スコッチウイスキーが売れないのだ」と激怒。これが酒税法改正につながり、二級・三級の安いウイスキーには今まで以上に税金がかけられ、ウイスキーは焼酎やワインに比べて「高級品」となってしまった。当然、消費はさらに、焼酎やワインに流れる。ウイスキーは大不況時代に突入。販売量は全盛期の4分の1にまで落ち込んだ。

長い冬の時代が続いていた2001(平成13)年、転機が訪れる。権威あるウイスキー専門誌「ウイスキーマガジン」が、ニッカの「シングルカスク余市10年」をベストオブベストに選出したのだ。スコッチ、アメリカン、アイリッシュなどを押さえ、政孝が心血を注いだジャパニーズウイスキーが、世界の最高峰、世界一だと認められたのである。

これを機に、ジャパニーズウイスキーは徐々に世界中で飲まれることになった。政孝の「本物へのこだわり」は、いつの間にか本場のスコッチウイスキーをも凌駕し、「本物を超えた本物」として世界に広まっているのである。

 

今なお受け継がれる政孝の「魂」

2017(平成29)年現在、人がスコップで石炭をくべる「石炭炊き」の手法をとっているのは、世界でもおそらく余市蒸留所だけだろう。

石炭炊きには、尋常ではない経験と手間が必要とされる。しかし、その経験と手間、そして火力が、余市オリジナルの香ばしく、力強い原酒を生み出す。

「ニッカウヰスキーは、竹鶴政孝という人間が創業者だったからこそ、今なお全社員がぶれずに『本物へのこだわり』を持ち続けていられるんです。時が経ち、働く人間が入れ替わっても、政孝の信念が脈々と受け継がれていますから、判断が揺らがない。これからも、変わらずに『本物へのこだわり』を持ち続ける人間が、ウイスキーをつくり続けていきます」(三明氏)

酒好きな外国人は「余市こそジャパニーズウイスキーの聖地だ」と語る。

ドラマ「マッサン」の大ヒットにより、政孝と余市、そしてニッカウヰスキーにまつわる物語を知っている外国人も多い。しかし彼らを余市へと向かせるのは、「ドラマで見た聖地巡礼」というミーハー心ばかりでは決してない。

「売れるウイスキー」「儲かるウイスキー」に流されず、常に「本物のウイスキー」をつくるべく戦った政孝と、その魂を継ぐ職人たちの志。そして、ウイスキーを飲む人間による、つくり手への敬意。それが余市を、ウイスキーの「聖地」たらしめている。

気候、水、石炭、ピート……。北海道だからこその豊かな自然によって育まれた、ウイスキーづくりに最適な環境と、本物のウイスキーをつくることに人生を賭けた男。奇跡のコラボレーションが、ニッカウヰスキーという宝を生み出したのである。

 

 

取材協力

ニッカウヰスキー株式会社

1934(昭和9)年、北海道余市町に「大日本果汁株式会社」を設立。その後、ウイスキー造りの成功とともに社名をニッカウヰスキー株式会社に変更。本文中にもある、シングルカスク余市10年(2001年)など数々の受賞歴を誇るが、2015年には世界中の生産者のなかから品質の高さと革新性において最も高い評価を得た1社だけに贈られる『ディスティラー・オブ・ザ・イヤー』を獲得。名実ともに世界トップとなった。

 

 

※本文内に含まれる情報は『JAPAN CLASS 第10弾』発売時(2017年12月刊)のものです。

関連記事

  1. 2019-8-14

    ニホンゴって難しいの?

    普段なにげなく使っている日本語。我々日本人にとってはなにも難しいことなどないのだが、外国人がいざ習得…

注目の記事

  1. 古くから日本人と深いつながりを持っていたキツネ。日本人の印象ではいたずらっ子だけどどこか憎めないヤツ…
  2. 和歌に端を発し、室町時代には庶民のあいだで流行。松尾芭蕉がその芸術性を高め、正岡子規によって成立した…
  3. 1870年代、ゴールドラッシュに沸くアメリカで作業着として誕生したジーンズも、いまではカジュアルファ…

カテゴリーから探す

年月から探す

日付から探す

2019年9月
« 8月    
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  

JAPAN CLASS(書籍)

ページ上部へ戻る