千年に一人のストーリーテラー・紫式部に外国人が心酔!

世界最初の小説としても世界中から賞賛の声を集める『源氏物語』。しかし千年前に書かれたこともさることながら、『源氏物語』が本当にすごいのは、平安時代に誕生して以来、千年以上も読み継がれてきたことだろう。あるときは教養を得るための本として、またあるときは恋愛小説として、時代が進んでも歌舞伎の演目や、浮世絵、舞台、マンガ、ドラマ、映画……その時代、時代の楽しまれ方で、常に日本人とともにあったのが『源氏物語』なのだ。なぜ、紫式部によるこの作品が国の内外を問わず読み継がれているのか、探ってみよう。

 

Text by Mikako Honma

 

世界最古の長編小説『源氏物語』

1999年、ミレニアムを記念し、イギリスのオックスフォード大学とケンブリッジ大学の歴史学者たちが「この千年間で偉大な業績を残した歴史上の30人」を選出した。ナポレオンやエジソン、レオナルド・ダ・ヴィンチといったそうそうたる面々のなか、ただ1人選ばれた日本人! その人こそが紫式部である。

紫式部といえば、平安時代の女流作家で代表作は『源氏物語』。『源氏物語』は主人公が光源氏でとにかくたくさん恋愛をして……、と、このあたりで言葉に詰まる人が多いはず。歴史や国文学フリークでないかぎり、紫式部のイメージを語るには、日本史や古典の授業で習った遠い記憶を掘り起こさなくてはならないのだから。

では、彼女と『源氏物語』が世界に与えたインパクトとはどのようなものだったのだろう。「この千年間で偉大な業績を残した歴史上の30人」に選出された理由は、「世界最初の小説を著した」ことであった。

「存在が確認できて文字で残っているものとなると、『源氏物語』は間違いなく世界最古に匹敵しますね。くらべられることの多い『アラビアンナイト』は口頭での伝承ですから」と語るのは、宇治市源氏物語ミュージアムの家塚智子さん。国内唯一の源氏物語に関する博物館の学芸員として、資料の収集や研究のほか、企画展などを手がけている。

家塚さんの挙げた『アラビアンナイト(千一夜物語)』は、9世紀の中東で生まれた説話集で、日本では「シンドバッドの冒険」や「アラジンと魔法のランプ」などがおなじみ。作者不詳のさまざまな物語が収められている。一方、紫式部の手によって『源氏物語』が書きはじめられたのは、1001(長保3)年のこと。そこからじつに12年もの歳月をかけ完成したのは、全54帖(じょう)、登場人物400名以上、物語上で流れる月日は70余年という、一大長編小説だった。

1925年、長く国内だけで読み継がれてきたこの小説は世界デビューを果たした。アーサー・ウェイリーによって英訳され、イギリスとアメリカで発売されたのだ。『源氏物語』に惚れ込んでいたアーサーは、翻訳した原稿を出版社に持ち込むと「これは世界の小説としては2本指か3本指に入る」と猛プッシュしたらしい。発売後は「世界の5大小説に入るだろう」と、ニューヨークタイムズやロンドンタイムズで絶賛されもした。以来、『源氏物語』の翻訳は世界中で行われ、家塚さんが知るだけでも30〜40か国で出版されているという。事実、源氏物語ミュージアムを訪れる外国人観光客も増えているそうだ。

「京都はもともとインバウンドに力を入れているということもあり、海外からいらっしゃる方は非常に多いです。欧米の方は、『源氏物語』をきちんと調べて来られているなとも感じます。そうでない方も〝The Tale of Genji″という言葉はご存知ですね」

 

日本文化の黄金期を描いた『源氏物語』

『源氏物語』が海外で絶賛された理由は、日本オリジナルの文化を伝えた点にある。平安時代は奈良時代につづき、朝廷を中心とした貴族が世の中を支配していたが、政治システムや文化が大きく変わった時期でもあった。そのキッカケは、「白紙(894年)に戻そう遣唐使」で覚えた、遣唐使の廃止。それまで国家モデルとしていた中国の王朝、唐に使者を派遣することをやめたのである。

ここから紫式部が活躍する約100年後までのあいだに、日本の文化は大きく花開いた。キュロットスカートのような装束に身を包み、髪を結っていた貴族の女性たちは、十二単(じゅうにひとえ)をまとい、長い黒髪で美を競うようになる。漢字をくずした「かな文字」が誕生し、恋人たちは漢詩ではなく和歌を贈り合った。自分の気持ちを和歌にたくしてあらわすことが、なによりの教養とされたのである。

「国が安定したというのが大きいですよね。一か所にとどまることができるようになると、人々の関心は内へ内へと向いていくんです。自分磨きというか、文化的な成熟ですよね。そういう意味では、現代も同じかもしれませんね」

国内に大きな戦もなく、外国からの侵略におびえることもない。平和な、のんびりとした時代が訪れたからこその、文化の発展であった。また、京都に置かれた平安京という都の地理も大きく影響しているのだとか。

「京都は三方を山に囲まれた地形で、四季がはっきりしています。和歌の表現が豊かになり、十二単の色の組み合わせである〝かさねの色目″でも季節感を出すようになりました」

平安貴族は歴史上、もっとも豊かな色彩感覚を持っていたといわれている。かさねの色目には四季折々の名前がつけられ、身に着ける時期やシュチエーション、年齢などを記したルールブックもあったほど。恋文をしたためる和紙の色が無粋ならば、「センス悪っ!」と相手にもされなかったのだ。もちろん、『源氏物語』のなかでも、四季のうつろいや色彩の豊かさが情感たっぷりに表現されている。

 

夫との死別が転機に

この時代、貴族の男たちはより高い地位に就こうと競争を繰り返した。ワイロや陰口は朝飯前。裏切り、デマ、誹謗中傷。優雅な文化とは対照的に、じつにドロドロとした出世争いが行われていたのである。とはいえ、どこまで出世できるかは生まれた家柄によってある程度は決まっていた。そこで重要になってくるのが、娘の存在。自分の娘が評判になり、高い身分の貴族に見初められ、めでたく結婚できれば、出世のチャンスが生まれるからである。

紫式部も、決して上流とはいえない家柄に生まれている。推定される生まれ年は970(天禄元)年、父は藤原為時(ふじわらのためとき)。皇太子に講義をしたこともあるほど、学問と教養を身につけた人物であり、歌人としてもすぐれていた。母は藤原為信(ふじわらのためのぶ)という貴族の娘だったこと、紫式部が3歳のときに亡くなったということぐらいしか現代に伝わっていない。

紫式部は幼い頃から賢く、物覚えも良かったらしい。弟のために教えていた漢学を聞いただけでスラスラと暗誦する姿を見て、「お前が男ならすぐれた学者になり、出世できたのに!」と父は嘆いたという。ちなみにこの頃、漢学は男性の学問。そのため、漢学にかなり精通していたにも関わらず、後に宮中で暮らすようになってからも、紫式部は自分からその知識をひけらかすことはしなかった。世界初の小説家は、控えめでシャイな大和撫子だったようだ。

貴族の娘として、習字、和歌、和楽器とさまざまな知識と教養を身につけていった紫式部だったが、結婚は30歳近くと遅かった。母の不在と、学者肌で権力争いに疎い父の影響もあったのかもしれない。相手は、彼女よりも15歳近く年上の藤原宣孝(ふじわらののぶたか)。家柄がとくに良いわけでもなかったが、2人は幸せに暮らし、やがて女児に恵まれた。

しかし、紫式部の結婚生活は、夫の急死によって終わりを告げる。夫に先立たれ、幼子を抱えたシングルマザー、紫式部は父のもとへと身を寄せた。

「旦那さんが亡くなり、自分と子どもだけが残された日々の手慰(ル:てなぐさ)みとして、『源氏物語』は書きはじめられたのではないかといわれています。もともと教養や文才のある女性ですから、ちょっと書いたものを知り合いに見せたら、〝面白い!″と評判になっていくんです」

ママ友からママ友へ、ママ友から旦那へ、旦那から会社の同僚へ、会社の同僚から上司へ……。さながら現代のブログのように、口コミで大人気となった『源氏物語』と紫式部。新作は次々と回し読みされ、やがて時の権力者、藤原道長の耳にもその評判が入るようになる。

 

藤原道長と紫式部

紫式部が生きた時代、もっとも高い家柄を誇り、権力を手にしていた人物が藤原道長一族である。朝廷のトップは天皇ではあるが、「殿上人」と呼ばれる上級男性貴族たちは、いかに自分の娘を天皇の后にするかに心を砕いた。后となった娘が皇子を産み、やがて即位すれば、自分が天皇の外祖父として政治を動かすことができるからである。

道長も例にもれず、自分の娘、彰子(しょうし)を一条天皇(在位986~1011年)の后となるように画策し成功する。しかし、当時は一夫多妻制。誰ががっちりと天皇のハートを掴み皇子を産むのか、熾烈な女の争いが繰り広げられていたのである。

「自分の娘を賢く、魅力的にするために、才に長けた女性たちを〝女房″に送り込むんです」

女房とは、天皇の后の世話係、兼、家庭教師のこと。いわゆる「宮仕え」とは、女房になることを指している。后の食事や着替えなどを手伝うほか、外出のお供や話し相手、ときには音楽や和歌を手ほどきすることもあった。

道長は世間で評判になっている『源氏物語』の作者、紫式部を彰子の女房にスカウトする。彰子の女房は40人もいたとされ、なかには『和泉式部日記』の和泉式部、『栄華物語』の赤染衛門などがいた。

「女房たちのなかで一大サロンが立ちあがっていくんです。ライバル関係といわれる清少納言と紫式部に、実際どこまで接点があったのかはわかりません。けれども、和泉式部をはじめ、現代に名を残している一流の歌人たちがみな、天皇の后に仕えた女房です。后を中心としたサロンで才女たちが切磋琢磨し、平安文学に影響を与えたんです」

文才に恵まれた女房たちに刺激を受けながら、紫式部は『源氏物語』を書きつづけた。「こんな感じかしら」と空想の翼をはばたかせて描いていた宮中も、宮仕えによってリアリティが増す。ファンはどんどん増え、彰子はもちろん、道長、そして一条天皇までもが登場人物の運命やストーリー展開を楽しみに待つようなっていった。道長は主人公、光源氏のモデルではないかと噂され、まんざらでもなかったようだ。質のいい和紙が手に入ったからと紫式部に届けたり、深夜に部屋を訪ねたり。自分の娘の女房にベストセラー作家がいたというのは、彼の誇りでもあったに違いない。

 

『源氏物語』とは

ここで改めて『源氏物語』の概要とあらすじを見てみよう。全54帖にわたる長編小説で、それぞれの帖に「桐壷(きりつぼ)」「帚木(ははきぎ)」「空蝉(うつせみ)」といったタイトルがつけられている。

主人公となるのは、光源氏。才能あふれるイケメンで、しかも天皇の子、という出自。しかし、母の身分が低かったがために皇族にはなれず、臣下となり「源」姓を賜った過去を持つ。光源氏の恋を中心にストーリーは展開していくが、とにかくモテるうえ、ガッツリ肉食系。義理の母や、義理の母の姪、人妻、通りがかった家の娘など、数多くの女性と愛を交わしていく。現代日本の倫理観では完全にアウトだが、そこは色恋に奔放な平安時代。ドラマチックすぎるストーリーを通して、人を愛する喜びと悲しみが浮き上がってくる。

やがて光源氏は天皇に准ずる地位まで上りつめ、我が世の春を謳歌する。しかし時は残酷なもの。妻が不義の子を産み、愛する人が去り、という悲運つづきに光源氏は失望し、出家。物語の中心は、妻が生んだ血のつながらない息子、薫の恋愛模様へとうつり、彼の恋は無情にも実らぬまま一大巨編は幕を閉じる。

『源氏物語』が完成したのは1013(長和2)年頃。そのあたりから紫式部にまつわる記録が極端に少なくなるため、宮仕えをやめたのではないかとも考えられている。というのも、1011(寛弘8)年、一条天皇が病に倒れ、位を三条天皇に譲ったあとに亡くなっているのだ。彰子は天皇の后である「中宮」から、先代の天皇の后である「皇太后」へと呼び名が変わり、藤原道長の興味も、どうしたら三条天皇を思いのままに動かせるか、ということに移っていった。華やかな話題を振りまきつづけた紫式部を中心とする彰子のサロンは、ひっそりと解散したのである。

 

君子論としての『源氏物語』

紫式部は歴史の表舞台から姿を消したが、彼女の魂ともいえる『源氏物語』にはスポットライトが当たりつづけた。日本史上、もっとも優美で平和だった400年、平安時代の豊かで充実した生活を回復できる黄金のテキストとして読み継がれたのだ。

「『源氏物語』は、どうしても長編恋愛小説といわれてしまいますが、時代の権力者たちが君子論としても読んでいるんです。平清盛や鎌倉時代末期の後醍醐天皇(在位1318~1339年)、室町幕府3代将軍、足利義満、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康もそうですね」

『源氏物語』を手がかりとして、途絶えていた宮中行事が復活した例もある。そしてその行事は、現在の皇室にも受け継がれているというから驚きだ。

「物語中の天皇の良政が、政治のお手本として読まれていきます。それに加えて、一度は臣下に下りながらも天皇に准ずる位まで上り詰めた光源氏をモデルケースとするんですね。清盛も義満も、家康も生まれた地位はそこまで高くありません。武士の出身である彼らが権力を手にし、公家と渡り合うためには、やはり教養が必要だったんです」

自分に地位がないなら、光源氏になればいい。『源氏物語』は、教養と同時に権力者としての生き方も授けてくれる、ありがたいリーダー論ともなったのである。特にご執心だったのは、江戸幕府を開き、久しぶりの平和を日本にもたらした徳川家康。『源氏物語』をモチーフとする能を得意とし、豊臣家との天下争いのまっただなかに写本の伝授を4回も受けている。王朝文化の保護を天皇や公家にアピールすると同時に、徳川家がすべての王朝文化をコントロールしていくことを宣言することが目的だったという。

 

受け継がれるストーリー

『源氏物語』は読み手によって、さまざまな表情を見せる小説でもある。教養書としての性格を基本としながらも、権力者にとってはリーダー論、年頃の女性にとっては恋心の指南書。江戸時代は大名の子女の嫁入り道具となり、当時の女性の生き方、仕え方のハウツー本としても活躍した。

時代ごとに能や絵巻物、歌舞伎、落語、春画など他メディアのモチーフとなり再生産されてきたというのも特徴的だ。

「『源氏物語』はその都度、リアルタイムで読まれてきました。現代でも宝塚の舞台や、映画、マンガになっていますよね。最近だと生田斗真さんや天海祐希さん、ちょっと前だと東山紀之さん。その時代の色男、美しい人が演じることで、見る側も納得できるストーリーなんです。マンガでいえば『あさきゆめみし』を入口に『源氏物語』を知ったという人も多いのではないでしょうか」

壮大なスケールで描かれるストーリーの緻密さと面白さが、受け手の心を掴んで離さない。本来の形である文学に立ちもどっても、谷崎潤一郎や瀬戸内寂聴、林望といった名文の担い手たちが、自分の言葉で物語を紡ぎなおし出版している。

「古文のままで読むのも、もちろん大切だと思います。ですが、なぜ千年も読み継がれてきたのかを考えると、現代語訳でもほかのメディアでもいいのではないかと。描かれている人間くささや生き方は、現代と共通している部分も多いんですよ」

平安時代の貴族と現代の私たちが似ているとは少し意外な気もするが……。

「男性から和歌を送られても、気に入らないと〝既読スルー″しちゃうんです(笑)。返事をするにも、がっついているように思われたら嫌だからとタイミングを図ったり。ライバルと鉢合わせしたり、相手選びに失敗したり」

平安も平成も変わらない、人間模様と恋の駆け引き。『源氏物語』には、先人たちが拠りどころとした生きるためのヒントがギュッと詰まっている。恋愛や人生に迷ったとき、世界初の長編小説に触れてみてはいかがだろうか。

 

 

取材協力

源氏物語ミュージアム
京都府宇治市。平成10年に開館。さまざまな映像、模型を駆使して来館者に『源氏物語』の世界をわかりやすく伝える。3000冊以上の関連書籍を所蔵し、実際に読んで学ぶことも可能となっている。『源氏物語』、優雅な平安貴族たちの魅力を再発見できるミュージアムだ。

 

 

※本文内に含まれる情報は『JAPAN CLASS 第8弾』発売時(2016年10月刊)のものです。

関連記事

  1. 2019-8-14

    ニホンゴって難しいの?

    普段なにげなく使っている日本語。我々日本人にとってはなにも難しいことなどないのだが、外国人がいざ習得…

注目の記事

  1. 古くから日本人と深いつながりを持っていたキツネ。日本人の印象ではいたずらっ子だけどどこか憎めないヤツ…
  2. 和歌に端を発し、室町時代には庶民のあいだで流行。松尾芭蕉がその芸術性を高め、正岡子規によって成立した…
  3. 1870年代、ゴールドラッシュに沸くアメリカで作業着として誕生したジーンズも、いまではカジュアルファ…

カテゴリーから探す

年月から探す

日付から探す

2019年9月
« 8月    
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
30  

JAPAN CLASS(書籍)

ページ上部へ戻る