巨大エコ都市・江戸を外国人が大絶賛

わが国の首都・東京。その前身といえば、言わずと知れた江戸だ。だが、かつての江戸は一介の地方の城下町に過ぎなかった。その江戸はいかにして世界に冠たる巨大都市となったのか。“江戸に詳し過ぎるタレント”堀口茉純氏の言葉を借りながらその変貌、そして世界のどの都市にもなかった独自性を追っていく。

 

Text by Shigeki Seike

 

徳川家康の先見の明

1603年、徳川家康により江戸幕府が創設され、首都機能が移されたことで、江戸はようやくわが国の中心となった。だが、当時の江戸はまだまだ小さな城下町。幕府創設直後の1609年、艦隊が難破したことで江戸を訪れたスペインの貴族ロドリゴ・デ・ビベロによって伝えられた江戸の人口はわずか15万人。それが、約100年後の17世紀後半から18世紀初頭には100万人を超えていたと言われている。まさに爆発的な人口増加が起こっていたというわけだ。

人口100万を超える都市というと、現在の日本でも仙台市や広島市など、各地方を代表する大都市のみ。とりわけ当時の世界では稀有な存在だったことは容易に想像できる。国勢調査が始まった1801年のロンドンが約86万人、パリが54万人だったということからも、いかに江戸の人口が膨大なものだったかということは明白だ。19世紀中ごろにロンドンが急速に発達するまで、江戸の人口は世界一だったとも推定されている。この人口爆発はいかにしてなされたのか。

「まず、参勤交代によって江戸にやって来る武士の人口が50万人でした」と堀口氏が言うように、1635年に始まった参勤交代が大きなきっかけとなった。ただ、“交代”というだけに、この武士たちは1年おきに自領と江戸を行き来する。そのため、武士の人口だけで江戸の人口が激増したというわけではない。だが、この参勤交代は大きな“副産物”をもたらした。

堀口氏によると、武士のために町を整える人たちが、地方から大量に江戸に入ってきたことも人口が増えた大きな要因だという。

参勤交代が始まると、新たに多くの武家屋敷が建てられ、武家人口のみならず、それを整備する町方の人口も増加したのだ。そして、江戸が巨大化するに当たり、大きな役割を担ったのが家康の先見性だという。

「家康は100万人を超える人口を許容しうる都市というものを、すでに当時の江戸に見ていたんですね。そもそもなぜ家康が幕府を開く際に江戸を選んだのかという話なんです。例えば鎌倉だと周りを山に囲まれているために市街地化できる場所が限られてしまう。その点、平野部が広い江戸は都市としての広がり、ビジョンを持って設計できるというわけです」(堀口氏)

 

江戸とパリの決定的違い

そして、まず家康が手を付けたのがあらゆるインフラ整備だ。

「例えば、小名木川という人工の河川を下総国(現在の千葉県北部)から江戸に向かって通しました。これは塩を運ぶためのもの。多くの人々が食生活を営むには大量の塩が必要ですから。続いて、神田上水や玉川上水などの上水道を整備しました。というのも、埋め立て地が多い江戸は井戸を掘っても塩水が出てきてしまうんですね。飲み水の確保は急務でした」(堀口氏)

家康は、人が生きていく上で欠かせない食、そしてその最重要要素である塩、水をスムーズに行き渡らせるためのインフラ整備を最優先事項とした。だが、簡単に事が運んだわけではない。重機もない時代、全て人力で行うという肉体労働のほか、江戸の人々は途方もない頭脳労働もこなすこととなった。

「上水道の場合、神田上水だけではまかない切れなくなるということで、玉川上水を整備することになりました。取水口は現在の東京都羽村市。そこから四谷まで水路を築くのですが、約43kmという距離に対して、高低差はわずか100mしかないんです。ポンプもない時代、水を流すには高低差を利用するしかないですから、本当に数メートルごとに1cmずつ水路を下げるような微妙な工事を行ったんです」(堀口氏)

一説によると、最終的に工事を請け負った庄右衛門と清右衛門の玉川兄弟は夜間に提灯や線香の明かりを用いた独自の測量を行ったとされている。そして、上水とくれば下水。この下水道こそ、パリやロンドンと江戸に決定的な違いをもたらしている。

「パリ、ロンドンにも下水はあるにはありました。でも、汚物を全て下水に流すようなことをしていたために非常に不衛生でした。それだけならまだしも、家の2階、3階から汚物を道に投げ捨てるなんてことも日常茶飯事。不衛生な下水が要因になってコレラや赤痢などの伝染病が蔓延することもありました」と堀口氏は言う。

時代は多少さかのぼるが、ハイヒールやシルクハット、マントにサンルーフといったファッショアイテムも、もとは建物から投げ捨てられる汚物対策として生まれたという話を聞いたことがある人も少なくないだろう。一方、今現在も外国人からは「潔癖症」とすら見られることもある日本人は当時から違った。

堀口氏は言う。

「江戸はというと、下水を清潔に保つという意識が最初から高かったんです。そもそも下水というとドブ臭いものを想像すると思いますが、江戸の場合、雨水や野菜を洗った水、お米のとぎ汁といったレベルのものでしたから。江戸の人々には下水に汚物を流すという発想がなかったんですね。しかも、下水番という人たちが、壊れたところがないかなど、ちゃんとチェックしていました。本当に管理が行き届いたきれいなものだったんです」

 

江戸の完璧なリサイクルシステム

となると、気になるのが汚物の行方。全て下水に流していたというパリやロンドンに対して、江戸では完璧なリサイクルシステムが構築されていた。堀口氏によると長屋には共用のトイレがあって、くみ取り業者が大家さんにお金を払い、溜まったし尿を買い取るシステムになっていたという。長屋の維持管理をしているのは大家さん、つまり住人のし尿で得る対価が、今で言うマンションの管理費に当てられていたということらしい。

し尿の対価で大家は長屋を維持し、買い取られたし尿は肥料として畑にまかれ、農作物を豊かに実らせる。収穫高が上がれば、増加を続ける人々の腹も十分に満たすことができる。そして、人々のし尿は再び……と、絵に描いたようなリサイクルシステムが機能していたのだ。しかも、そのサイクルは江戸の上流社会をも組み込んだものだった。江戸城、特に将軍家の子女や正室が暮らす大奥から出る下肥は高値で取引されていたという。

「いいものを食べているから栄養もたっぷりあるだろうというシンプルな発想ですね(笑)」(堀口氏)

一方、パリを例に出すと、王侯貴族をはじめとしてほとんどの人々が建物の片隅や庭先で平然と排便をしていた。かの有名なヴェルサイユ宮殿でさえ、宮殿内の便器の中身は庭に捨てられていたため、中庭や回廊はし尿であふれ、とんでもない悪臭が漂っていたと伝えられている。

この違いには、宗教観も影響していると見られる。よく知られているように、日本はあらゆるものに神が宿るとする「八百万の神」の国。2010年のヒット曲『トイレの神様』を覚えている人も多いだろう。トイレには「厠神(かわやがみ)」と呼ばれる神様がいる。そのため、日本人には古来よりむやみに糞便を投げ捨てることは罰当たりだという意識があり、自然にトイレやその周囲も清潔に保ち、し尿すらリサイクルする習慣が根付いていったのだ。

 

江戸をエコ都市たらしめた “もったいない”の心

ケニアの女性環境保護活動家・ワンガリ・マータイ氏が「もったいない」という日本語に感銘を受け、「MOTTAINAIキャンペーン」をスタートさせたのは2005年。日本語でしか表現できない「もったいない」という日本人独自の感覚は、当然、江戸の人々も持っていたもの。それは、し尿のリサイクル以外にもあらゆるところで見受けられる。例えば、廃材の処理もその一つ。

「江戸は火事が多かったので、廃材もたくさん出ます。1657年の明暦の大火では50年ほどかけて造られてきた江戸の街の大半が焼けてしまいました。その大量の廃材で埋め立てたのが深川や本所なんです。本当にものを捨てないんですね。幕末のころに江戸を訪れた外国人たちが、文化の違いについていろいろと書き綴っていますが、その中の一つが『とにかく日本人はものを捨てない』というもの。例えば懐紙、今で言うちり紙ですが、それを使ってもそのまま懐にしまって、乾いたらまた使う。外でゴミを捨てるという習慣はありませんでした。自分が出したゴミは全て持ち帰って自分のコミュニティーで処理するというのが当たり前だったんです」(堀口氏)

近年でこそ花見客のゴミ出しマナーなどが問題視されることもあるが、一般的には日本人は“ゴミを持ち帰る”民族として知られる。2014年、ブラジルで開催されたサッカーワールドカップで、試合後に観客席のゴミ拾いをする日本のサポーターを多くの海外メディアが絶賛したことは記憶に新しい。意識することはなくとも、この行動も間違いなく江戸時代、あるいはそれ以前から受け継がれてきた日本人の気質によるものだろう。しかも、江戸の人々が使っていた懐紙にはさらなるエピソードがあった。

「懐紙って、実は再生紙なんですよ」(堀口氏)

再生紙というと、近年のものだと思いがちだが、日本の再生紙の歴史は古く、なんと平安時代にはすでに作られていたのだという。

「江戸では浅草紙と呼ばれる懐紙が有名でした。ちなみに、浅草紙の紙漉きが行われていたのは吉原の近く。職人たちは原料を“冷やす”工程の間だけ吉原の遊女を品定めしたり、彼女たちにちょっかいを出したりしていたそうです。でも仕事の最中ですから、遊びはしません。店のほうでは『あれは“冷やかし”の客だから』と言ったのが『冷やかし』の語源だそうですよ」(堀口氏)

普段、何気なく使っている言葉に、なんとも江戸らしい粋な逸話が隠されていた。し尿や紙のリサイクル、ゴミや廃材の適切な処理と、エコロジーという言葉など知るはずもない江戸の人々だったが、彼らが造った江戸は紛れもなく当時世界一整然とした巨大エコ都市であったのだ。

 

外国人が賞賛してやまない“徳川ジャパン”

ただ“整然とした”街と言う場合、一般的には街路や建物が規則的に並ぶ、いわゆる碁盤目状の街をイメージすることも多い。その点、江戸――現在の東京は雑然とした印象が拭えない。しかし堀口氏によると、それも明確な計画に基づいて形成されたものだという。

「京都などの整然さと比べると、たしかに東京は無秩序に広がっているというイメージがあると思いますが、実はそんなことはありません。江戸は、碁盤目状ではなく、江戸城を中心に渦巻き状、放射状に街を広げていったんです。それは物資を効率的に周囲の地域に届けるために考えられたもの。川が多いというのも物資を運ぶには有利でした。もともとあった川だけではなく、意図的に水路も造っています。しかも、その渦巻き、放射の中にはいくつもの正方形単位のセル状の町がある。見方次第では、造りは整然としているんです」

江戸は、リサイクルというエコシステムのほかに完璧な流通経路も備えていた。それも巨大な人口を支えられた要因の一つだ。現代にも通じる、あるいは見習うべきところも多いと言える。実際、外国人による江戸の再評価も進んでいるという。

「外国の方には“徳川ジャパン”と呼ばれていますね。徳川の治世は世界史的に見ても特殊なんです。17世紀、18世紀という世界中が侵略戦争に明け暮れていた時代に、200年以上にわたって平和な時代を築いていた。『平和なほうがいいよね』という暗黙の了解の下に、みんながちょっとずつ我慢しながら社会をうまく成り立たせていたのが江戸なんです」(堀口氏)

そして、その200年を優に超える平和な時代がさらなる独自性を生み出した。江戸の町人文化だ。戦争のことを考える必要がないからこそ、人々の興味・関心は文化、娯楽に向かった。

「参勤交代によって増加する武士のために、新たに町を造る人たちのほとんどは男性でした。単身赴任の独身男性が非常に多いというのが江戸の特色だったんです。すると、彼らが暮らしやすいようにと新たな文化が生まれる。例えば、天ぷらやすし、そばといった和食も独身男性が気軽に食べられるファストフードとして発達したものです」(堀口氏)

ほかにも、女性が少ない社会でなんとか二次元媒体で欲望を満たせるようにと生まれたのが浮世絵だ。それが海外に伝わり、ゴッホやマネら多くの芸術家に影響を与え、ジャポニスムという日本趣味を生んだことは広く知られている。そして、それら江戸文化の影響は決して過去のものではない。

「2020年の東京オリンピックに向けてたくさんの外国人の視線が日本、東京に集まっています。彼らが何を求めているかというと日本らしさ。そして彼らが連想する日本らしさとは、歌舞伎や着物、和食。それらが生まれて育まれたのは江戸なんですよね。現在の外国の方から見て日本オリジナルのものだと感じるものの多くが江戸生まれだということを考えると、やっぱりすごい都市だったんだなと思います」(堀口氏)

 

 

取材協力

堀口茉純(ほりぐち ますみ)

1983年、東京都足立区生まれ。明治大学文学部演劇学専攻。在学中に文学座付属演劇研究所入所。2008年に江戸文化歴史検定一級を25歳の最年少で取得。主な著書として『江戸はスゴイ~世界一幸せな人びとの浮世ぐらし~(PHP新書)』など多数。

 

 

 

※本文内に含まれる情報は『JAPAN CLASS 第13弾』発売時(2017年8月刊)のものです。

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