日本のイチ牧場が世界の競馬勢力図を塗り替える!

2016年の凱旋門賞を皮切りに、日本馬出走レースに限り海外で行われるレースの馬券が日本でも発売されている。これによって日本馬の海外での活躍ぶりがより身近に感じられるようになったのは間違いない。とはいえ、いまでこそ世界中のホースマンから「日本馬は強い」「日本の競馬は世界トップレベル」と言われる日本馬だが、最初から外国馬と互角以上の戦いができていたわけではない。そこには日本の競馬を大きく変えたホースマンの存在があった。

 

Text by Dai Okada

 

 「日本は名馬の墓場」

競馬後進国からの出発と脱却

2016年10月2日、フランスのパリ郊外にあるシャンティイ競馬場にて、競馬の世界最高峰レースのひとつに数えられる凱旋門賞が開催された。ここに、同年の日本ダービー馬マカヒキが参戦。渡仏前から、競馬が盛んな本国のフランスや隣国のイギリスの専門紙で取り上げられるなど話題を集め、なんと最終的にはPMU(※フランス競馬の馬券売上の大半を占めるPari Mutuel Urbain「フランス場外馬券発売公社」の略称)で単勝2番人気に支持された。残念ながらレースでは14着に大敗してしまったが、海外の並み居る強豪に交じって「2番目に勝つ可能性が高い」とみなされたことは非常に意義深い。日本生まれの日本調教馬が凱旋門賞で2番人気に支持される――ひと昔前ではとうてい考えられなかったことだからだ。

12世紀にイギリスで発祥した競馬が日本に伝来したのは、1860年代のこと。横浜に居留していた外国人が本国にならって馬で競走を始めたことが日本競馬史の出発点になっている。このころはすでに、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国、アメリカ、オセアニアなどの地域では、近代競馬のスタイルはほぼ確立されていた。日本は競馬に関しては超が付くほどの後進国だったのだ。

以後、良質な軍馬の選定・改良・育成を目的に政府が競馬を積極的に奨励したこともあって、着実に全国各地に普及したが、そのレベルは知れたもの。アメリカに長期遠征し、実質的には現地に移籍したような格好だったハクチカラが、1959年に11戦目にして待望の海外初勝利を挙げるも、これに続く存在はすぐには現れず、日本馬の海外遠征は惨敗を重ねるだけという暗黒の時代が長く続いた。

当時の日本の競馬は欧米からかなり下に見られていたため、日本の競馬関係者がよりよい血統を求めて実績のある種牡馬を輸入しようと試みるも、なかなか売ってくれない。ようやく名のある馬の輸入にこぎ着けるも、産駒が期待に反して走らない。そんな“失態”を繰り返していたこともあり、競馬先進国から「日本は名馬の墓場」と揶揄されることもあった。

1981年には国際招待レースのジャパンカップが創設され、国内で海外の強豪と戦える舞台が用意されたものの、海を渡ってやってくる外国馬にはまったく歯が立たなかった。地の利を生かして一矢報いることもあったが、毎年のようには続かない。ジャパンカップができてからしばらくは、外国馬が圧倒的優勢を誇っていた。

しかし……。

20世紀の後半、1990年代に入ると徐々に状況が変わり始める。ジャパンカップの主導権を日本馬が握るようになり、さらには海外に遠征してビッグレースで結果を残す日本馬もチラホラと出現するようになったのだ。

そして、21世紀に入ると、日本馬の勢いは加速する。海外のレースを制すのは日常の光景となり、欧米の競馬関係者が「日本の競馬のレベルは各段に上がった」と認めるようになった。日本産の種牡馬が海外に輸出されるようになり、海外の大物馬主が日本で開催される競走馬のセリ市を訪れ、良質な日本産馬を高額で購入するケースも増えた。

ひと言、時代は完全に変わった。冒頭に登場した凱旋門賞のタイトル獲得には未だ至っていないものの、近い将来、必ずや日本馬の頭上に栄冠が輝く日が訪れるであろうと言われている。

 

日本競馬発展の

礎となったホースマン

日本馬のレベルアップと日本競馬の躍進。これが、向上心の強い関係者のたゆまぬ努力によって導かれたものであることは間違いない。競馬の国際化を推進してきた日本中央競馬会(JRA)。日本人騎手の世界的な評価を高める役割を果たした武豊。そのほか、生産者、馬主、調教師、騎手など、競馬に携わる“ホースマン”すべての力が結集されたからこそ、このような時代を迎えるようになったわけであり、だれかひとりの手柄によるものでは断じてない。

しかし、「この人抜きには語れない」というほどの大きな功績を残した人物を挙げるとすると、候補はだいぶ限られてくる。そのなかで筆頭格の扱いを受けて然るべきなのが、吉田善哉だろう。もしも彼がいなければ、そして、燃えたぎる情熱と揺るがざる信念を持って競馬と対峙しなければ、日本の競馬はここまで進化を遂げなかったはずである。

吉田善哉は1921(大正10)年、北海道の社台牧場で酪農業を営む吉田家の三男としてこの世に生を受けた。父・善助は日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した酪農家で、のちにサラブレッドの生産にも着手。肺を患っていたことで兵役を免れた善哉は、1945(昭和20)年に父の死に伴うかたちで社台牧場千葉富里分場の管理を引き継いだ(当時の所有者名義は兄・善一)。

その後、GHQが進めた農地解放政策によって牧場の大半が接収されるも、異議申し立てを行い、数年にわたる交渉の末、1953(昭和28)年に土地を取り戻すことに成功。同時に、牧場の所有者名義も自身のものとなった。そしてその2年後、母・テルの死を機に独立の道を選択。牧場名を「社台ファーム」と改め、新たな取り組みへの挑戦を決意したのである。

これが、馬産家・吉田善哉の本当の意味でのスタート地点。このとき牧場にいた繁殖牝馬は、わずかに8頭だった。

目標は、自分の牧場を日本一にすること。そして、世界と対等に渡り合うこと。これを常に頭の片隅に置き、善哉は奮闘に奮闘を重ねた。とにかく勝ち負けにこだわった。成功を収めている牧場の要因を研究し、欧米で当たり前になっている最新知識や技術を学び、取り入れられるものはなんでも取り入れた。

「私は自由競争が好きなんだ。競争が大好きだから、競馬という仕事が合っている」

そう言って、馬の育成方法、飼料や設備などの改善に努め、馬の質の底上げを図るために、優秀な血統の繁殖牝馬を求めて海外に飛んだ。日本の競馬の将来を憂い、国際化を叫び続けた。それまで日本国内の競馬界にあった“常識”や“暗黙のルール”などは意に介さない。なりふり構わぬやり方に、周囲の反感も買った。見渡せば、敵ばかりだった。頑固で偏屈で独善的。いまふうに言うと“空気の読めない男”――いや、その場に流れる空気がわかっていても、「合わせる必要などない」と一刀両断してしまえる、強靭な精神力を携えた男だった。

吉田善哉を知る人の多くが、「あの人は馬のことしか頭になかった」と口をそろえる。馬を夏負けから守るために、1958(昭和33)年に千葉の牧場の一部を売却し、北海道の白老、錦岡、伊達に土地を購入。牧場を開くとともに、千葉と北海道における二元育成法という、画期的なスタイルを採り入れた。周りの反対があろうとなかろうと、強い馬を作るために、自分の信じる道だけをひたすら突き進んだ。

 

度重なる窮地と

起死回生の大成功

と、ここまでを振り返ると順風満帆のような印象を受けるかもしれないが、決してそんなことはなかった。善哉に守りの姿勢はない。選択する策は攻め一本。下は見ない。後ろは振り返らない。視線は常に、前へ、上へ。お金がかかっても、ほしいもの、必要と思えるものは手に入れる。妥協はしない。その強気の経営方針が、社台ファームを何度も窮地に陥れた。借金が膨れ上がり、スタッフへの給与遅配が続く。昭和30年代前半の牧場の家計は火の車で、倒産の危機が目の前に迫ったこともあった。

それでも、やはり“持っている”人間は持っているということか、善哉の執念が実を結ぶ瞬間が訪れる。それまで、海外から輸入してきた馬やその子孫が劇的な活躍を見せることはなかったが、1961(昭和36)年にアイルランドで購入したガーサントが、種牡馬として大成功を収めるのである。初年度産駒から活躍馬に恵まれ、ヒロヨシ(66年オークス)、ニットエイト(67年菊花賞、68年天皇賞・秋)、コウユウ(68年桜花賞)、シャダイターキン(69年オークス)と、現在の最高格付のGⅠに相当する大レースを制する馬を4頭輩出。1970(昭和45)年には待望のリーディングサイアー(種牡馬ランキング1位)の座を獲得した。

ガーサントの購入を機に社台ファームの風向きも変わり、1963(昭和38)年にリーディングブリーダー(生産者ランキング1位)に上り詰めると、翌年以降はその地位を不動のものに。1966(昭和41)年には、イギリスのロンドン郊外にあるリッジウッドファームを購入し、ついに海外進出を果たした。

ほどなくしてリッジウッドファームを売却。今度はアメリカのケンタッキー州レキシントンに土地を購入し、1972(昭和47)年に同地でフォンテンブローファームを開場した。このとき、長男の照哉を場長として送り込んだのだが、これが社台ファームを飛躍的に成長させる大きな要因となった。

当時、善哉は世界の血統の勢力図を塗り替えんばかりの実績を残しつつあった大種牡馬ノーザンダンサーの血を欲していた。ノーザンダンサーの仔を手に入れたい。その思いはアメリカにいる長男の照哉も同じだった。

アメリカの1歳馬のセリ市で、日本にいる善哉から「ノーザンダンサー(産駒)の一番いい牡馬を買ってこい」との命を受けた照哉が、これしかないと直感して落札した運命の1頭。その馬はノーザンテーストと名付けられ、ヨーロッパで競走馬生活を送ったあと、種牡馬として1975(昭和50)年に日本の土を踏むことになった。

ノーザンテーストはそれまでの日本の種牡馬記録を次々に打ち破り、10年連続リーディングサイアーの座に就くという大記録を達成。「日本競馬史上最高の種牡馬」と称される存在となった。同時に、社台ファームの台所事情も潤うようになり、1980(昭和55)年には国内初の本格的な共同馬主のクラブ法人「社台ダイナースサラブレッドクラブ」を立ち上げるなど事業規模を拡大。稼いだお金で良質な馬を購入し、その馬や子供たちが活躍して新たな利益を生み出すという、好循環が生まれていった。

そして、1990(平成2)年に“大事件”が起こる。

 

吉田善哉、

最後の大仕事

1989(平成元)年の春、アメリカのクラシック(その年の3歳馬のトップクラスによって争われるビッグレースのシリーズ)で大活躍する1頭の映像を見た善哉は、たちまちその馬に惚れ込んだ。現地に飛び、馬体と走りを目の当たりにし、思いをさらに強くした。

「ほしい」

頭のなかはその馬のことで一杯。時間が経過するにつれ、“欲”はどんどん膨れ上がっていった。

「馬の仕事をする家に生まれていろいろやってきたけど、いちばんの仕事が待ってるような気がするね。これは大仕事だ。無理かもしれないが、無理と思ったら負けるから、そうは考えないことにする。恋愛みたいなもんだ。大仕事だ。私の最後の大仕事だと自分に言い聞かせている。これがうまくいったらね、なにも思い残すことはないから引退だ」

その年の秋、赤坂の中華料理店で善哉はこう語ったそうだ。

馬の名前はサンデーサイレンス。1989年のアメリカの年度代表馬(すなわち全米ナンバーワン)。大仕事とは、言わずもがなこの馬を手に入れ、種牡馬として自分の牧場に連れてくることである。

当時はまだまだ日本は競馬後進国という扱いを受けていたころ。欧米で一、二を争う馬を日本人が購入するというのは非現実的な話であり、だれもが不可能だと思っていた。「買いたい」「買おう」という考えすら起こさなかった。

されど、善哉に“常識”は通用しない。善哉は満を持して“大仕事”に取り掛かった。

長男の照哉とともに、何度も、そして熱心にオーナーサイドと交渉し、翌年の春に所有権の25%(約3億7500万円=当時)の買収に成功。全権取得への足掛かりを作った。このとき、サンデーサイレンスは善哉を含む4人のオーナーによる共同所有だったため、完全に手に入れるにはほかの3人の理解と了承を得る必要があった。

ここで生きたのが、照哉をアメリカに武者修行に出した過去である。照哉はフォンテンブローファームの場長時代に、サンデーサイレンスのオーナーのひとりに名を連ねるアーサー・ハンコック3世と出会い、良好な関係を築いていた。これが、交渉の前進に一役買ったことは想像に難くない。

そして、サンデーサイレンスが調教中にケガをしたことにより競走馬を引退した直後の8月21日の朝、他のオーナーサイドとの合意に達し、1100万ドル(約16億5000万円=当時)で全面買収が成立。この歴史的な“大事件”は、翌日の日本のスポーツ紙で大々的に報じられた。馬1頭の値段としてはとんでもない金額に映るかもしれないが、善哉は「手ごろな価格で折り合いがついた。大変ラッキーだった」とコメントしている。それくらい、サンデーサイレンスに寄せる期待は大きかったのだ。

しかし、善哉がサンデーサイレンスの子供たちの走りを見る夢は叶わなかった。初年度産駒のデビューを翌年に控えた1993(平成5)年8月13日、40年の歳月をかけて育て上げてきた社台ファームの敷地内で息を引き取った。馬にすべてを捧げた、72年の生涯だった。 そして日本の 競馬が世界一へ  生前、善哉はこんなことを口にしている。

「ノーザンテーストの仔と同じくらいに走ると信じているサンデーサイレンスの仔を走らせればね、そのうち何十年したって、日本のあちこちでサンデーの血が走るわけだね」

願望でも予想でもない。これは予言だ。この言葉の裏には、確信という二文字が見え隠れする。

そして、この予言は的中した。何十年どころか、ものの数年で、日本の血統史はサンデーサイレンスによって完全に塗り替えられたのだ。

デビューする産駒が走る走る。日本ダービーをはじめとする大レースを勝ちまくり、わずか2年でリーディング―サイアーの称号を獲得。その地位を13年間守り抜き、ノーザンテーストが打ち立てた数々の偉大な記録を次々に、しかもあっさりと破ってみせた。種付け料は2500万円にまで跳ね上がったが、それでもなお、種付けの依頼が殺到した。

サンデーサイレンスの子供たちが猛威を振るうようになったころから、欧米の競馬先進国の関係者が日本の競馬によりいっそう注目するようになった。「サンデーサイレンスの血がほしい」と真剣に考える、海外の生産者も現れるようになった。数十年前、いったいだれがこんな時代が訪れることを想像できただろう。もしかしたら、吉田善哉にだけは、この輝かしい未来が見えていたのかもしれない。

善哉の死後、長男の照哉は社台ファーム、次男の勝巳はノーザンファーム、三男の晴哉は追分ファームとそれぞれが独立し、別々の経営体制をとるようになったが、種牡馬事業やクラブ法人事業などでは密に連携。日本の競走馬生産界に「社台グループ」という絶対王国を築き上げていった。

社台グループは、自らが中心になって設立に至った日本競走馬協会主導のもと、従来のセリ市ではお目にかかることのできなかったような良質な馬を提供する新しいタイプのセリ市「セレクトセール」を1998(平成10)年から開催。サンデーサイレンスを筆頭とする良血馬がズラリとラインナップされたこともあって購買客が押し寄せ、「国内最大の競走馬セリ市」の名をほしいままにするようになった。

セレクトセールの評判は瞬く間に世界中を駆け巡り、アラブの大富豪や欧米の大御所馬主が次々に来日。億単位のお金を払って日本産馬を競り落とすという、信じられない光景が展開されるようになった。

2002(平成14)年のサンデーサイレンスの死後は、現役競走馬時代に優秀な成績を残した多くの子供たちが、日本を代表する種牡馬として生産界を牽引。現在は「サンデーサイレンスの最高傑作」にして「日本競馬史上最強馬」との呼び声が高いディープインパクトが、父同様に世界中から注目され、活躍馬を次から次へと世に送り出している。

「日本の競馬のレベルは世界一」

リップサービスではなく、本気でこう口にする一流外国人騎手、競馬関係者も少なくない。2012(平成24)年には、当時の日本最強馬オルフェーヴルがフランスに遠征する際、フランスのナンバーワン騎手クリストフ・スミヨンが「オルフェーヴルに乗りたい」と熱望し、地元の有力馬には目もくれず騎乗契約書にサインしたほど。これもひと昔前では考えられない、ある種の事件といえば事件である。

2015(平成27)年の8月には、イギリスを代表する競馬専門紙『RACING POST』が日本の吉田ファミリーを取り上げた特集記事を発表。「Yoshidas the new world superpower of breeding」という大きな見出しが打たれ、善哉から照哉・勝巳・晴哉の3兄弟へと続く吉田家の栄光の歴史と、成功の要因について詳しく紹介された。いまや競馬発祥の国であるイギリスにも「Yoshida」の名は轟き、揺るぎない評価を勝ち得ているのだ。

善哉から3兄弟へと受け継がれた“意志”は、その下の世代へと伝承され、社台グループはさらなる発展を見せようとしている。その勢いは、もうだれにも止めることはできない。  最後に、改めて強調する。

吉田善哉がいなければ、世界に認められるようになった日本競馬の現在はない。  事実なのである。

 

(文中敬称略)※参考文献……『血と知と地』(ミデアム出版社・吉川良著)

 

 

※本文内に含まれる情報は『JAPAN CLASS 第9弾』発売時(2016年12月刊)のものです。

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