ジーンズ買うならコジマだよな! 世界中のデニムファンが岡山県に集結!

1870年代、ゴールドラッシュに沸くアメリカで作業着として誕生したジーンズも、いまではカジュアルファッションの王道、定番になった。アメリカ文化の象徴とも言えるジーンズの聖地が、実は日本にあった!? ジャパンメイドのジーンズは、高品質なデニム生地、分厚い生地を芸術的なほど繊細に縫い上げる縫製の巧さ、こだわりの染色、加工技術、そのどれもが世界中から高い評価を集めている。なかでも世界中のジーンズマニアから熱視線を浴びているのが、Made in OKAYAMA、岡山県産のジーンズだ。産地である児島地域は「国産ジーンズ発祥の地」、「ジャパンデニムの聖地」として知られる。
アメリカ生まれのジーンズが岡山に根付いたのはなぜなのか? 岡山はなぜジーンズの本場になり得たのか? 世界のセレブが愛用するジーンズブランドの社長にして、児島地域活性化の旗振り役でもある眞鍋寿男さんに話を聞いた。

 

Text by Kazuki Otsuka

 

瀬戸内海に面した
小さな街がジーンズの聖地に?
瀬戸内海を望む岡山県倉敷市児島。瀬戸大橋のたもとにあり、海と空のブルーが混じり合う景色を持つこの小さな街には、今日もある目的を持った観光客がやってくる。若者が好むような施設や、外国人がわざわざ電車を乗り継いでやってくるような名所、名跡があるとは言えない児島地域の人気の秘密は、駅に降りたった瞬間に解明される。自動販売機、エレベーター、階段、ロッカーから自動改札機にいたるまで、ジーンズ一色なのだ。
その駅から1キロ弱のところに、漁業、塩業、機業(木綿・繊維産業)で栄えた味野商店街があり、その一角400mほどが現在は「ジーンズストリート」と名付けられ、ジーンズメーカーの販売店、雑貨店が軒を連ねる。
「日本のデニム、ジーンズが評価されている。どうせやるならジーンズで街おこしができないか、県外から人を呼び込んで、児島の商店街を活性化しようというのがはじまりでした」
こう話すのは、児島ジーンズストリート協同組合代表理事の眞鍋寿男さん。眞鍋さんは、世界的に評価の高い『桃太郎ジーンズ』、『ジャパンブルー』ブランドを手がける株式会社ジャパンブルーの代表取締役社長でもある。眞鍋さんは、徹底したブランディングで岡山、児島デニム、ジーンズの価値を高めていった立役者でもある。
「海外からの評価は、岡山のデニム生地の質の良さ、テキスタイルとしてのジャパンデニムへの高評価が一番でしょうね。日本製品ならではの丁寧さ、きめの細かい技術をアピールするために、海外でも見本市や紹介できる場があれば足を運んでいます」
日本でいちばん最初にジーンズを作った児島だけあって、1980年代にはすでにいくつかのメーカーがアジア諸国やヨーロッパ各国で製品としてのジーンズを販売していた。しかし、岡山のジーンズが世界的に注目を集めるきっかけになったのは、ジーンズの生地であるデニムの圧倒的な品質が認められてからだと言う。
「アメリカで生まれたデニムの歴史には敵わないかもしれないけど、自分たちが新しい歴史を作るんだ。テキスタイルとしてのデニム、染めや織りにもさらに工夫を重ねて、日本の物づくりにしていったんです。その結果、世界的な評価が集まり、いまではミシュラン・グリーンガイドにも“ジーンズの日本の都”として掲載されるまでになりました」
アメリカ発祥のものでもあっても、技術力と創意工夫で本家を上回る品質で物づくりを行う。いかにも日本の製造業っぽいストーリーだが、ジーンズ、デニムと児島地域を巡る物語は、そう単純ではなかった。
「なぜ岡山なのか? どうして児島だったのか? いろいろな人に聞かれますけど、地理的条件、歴史的な背景、いろいろな要素が合わさって児島のデニムなんです」
地理や歴史? なんだか壮大な話になってきたが、岡山県の児島地域でジーンズ製造が始まり、さらに高度な物づくりとして花開いたのにはそれ相応の理由があった。

 

歴史と風土が紡いだ
児島の繊維産業
400年ほど前まで、児島地域は島だった。それが河川による自然干拓と、岡山平野の干拓が同時並行で進み、広い土地が生み出されたのだという。
「児島は干拓地なんです。元々は海だったわけだから、すぐには作物を植えられない。それならと始まったのが、塩害に強い綿花の作付けだったんです。このとき植えられた綿花が発端になって児島は繊維の街になった」
かつてない大津波に襲われた東日本大震災の被災地でも、被害に遭った田畑で綿花を栽培する「東北コットンプロジェクト」が行われているが、これも児島をはじめかつての日本人が土地や環境の制限に屈することなく生み出した知恵の賜物だ。
「大河ドラマ『真田丸』で真田信繁が作っていた織物の紐「真田紐」も、児島で作られたのが最初という説もあるんです。干拓地に植えられた綿花を発端に繊維業が始まって、糸ができ、織物の紐になった。次に厚手の織物である帆布ができ、同時に足袋の生産が盛んになったんです。大正時代には足袋の一大産地として知られるようになり、それが現在につながっていくんです」
2本の糸を縒って太くすることで生地を厚くする。児島の帆布は、いまでも国内シェア7割を占めるとも言われるが、厚手の織物である帆布製造やこれまた生地の丈夫さが求められる足袋の生産は、デニム素材の扱い、縫製や加工にダイレクトに直結する、代々受け継がれてきた伝統技術だろう。
岡山の繊維業と聞いてジーンズのほかにもう一つ、知る人ぞ知る名物がある。クイズ番組の問題になることもあるのでご存知の方も多いと思うが、学生服の生産量は岡山が日本一なのだ。
「綿100%、木綿の学生服ですよね。糸を縒る技術が無地の織物を生んだんです。学生服はずっと生産量日本一です。少子化で子どもの人口が減り、新規参入も増えましたが、現在も国内シェアは6割ほどあります」
当時の児島織物合資会社が足踏みミシンを導入し、学生服の生産を開始したのが1921年(大正10年)と言うから、学生服の歴史は児島とともにあったと言っても過言ではない。こうした技術を活かして、戦時中は軍服、戦後になるとトレパン、トレシャツ、ブルマなどの体育衣料作業服、事務服、ワークユニフォームなども盛んに作られた。
「児島のジーンズ作りの直接のきっかけになったのはトレパンなんですよ。トレパンを縫製していた会社が、その技術を使ってジーンズ作りに転換していったんです」
地域の特性と培った技術をうまく活かして、江戸から明治、大正、昭和と時代に応じてさまざまな製品を作り続けてきた児島が、世界に冠たる“ジーンズの聖地”になったのは、必然だったのかもしれない。

 

ワンウォッシュ、ケミカルウォッシュを生んだ
ニッポンの創意工夫
カジュアルの定番として男女問わず人気のジーンズは、いまではすっかり私たちの生活に根付いている。そんなジーンズも日本で受け入れられ、定着するまでにはそれなりの時間を要した。
本来ジーンズとは、デニム生地で作られたカジュアルパンツのことを指す。アメリカの鉱山労働者のニーズに合わせて丈夫なデニム生地を用い、インディゴで染めた現在のジーンズを最初に製品化したのは、リーバイスの創業者リーバイ・ストラウス。ゴールドラッシュによりジーンズの需要が高まったのは、1800年代半ばから。サンフランシスコにリーバイスの本社が建てられたのが1866年と言うから、ジーンズの歴史は古い。生地であるデニムはフランスのニームで織られた生地だったことから、ジーンズという呼び名も、デニム生地がフランスからイタリアに入り、ジェノバ港から出荷されたからという説も近年知られるようになってきた。
長い歴史を持つジーンズだが、日本に入ってきたのは終戦後になってからのことだ。GHQの古着放出品で出回ったのが最初とされ、日本で最初にジーンズを履いたのは白洲次郎だったと言われている。
眞鍋さんによると一般の日本人に広くジーンズが認識されたのは1964年。東京オリンピックが開催された年だ。
「1964年を皮切りに一気にアメリカ文化が入ってきた。ファッション的にもいろいろな形がありましたが、ビートルズとかヒッピー文化、アメリカンドリームですよね。そこで新しく日本でもジーンズを作ろうという機運が出てきたんです」
当時は日本製と胸を張れるデニム生地もジーンズ作りのノウハウもまだなかった。原材料をアメリカから取り寄せ、厚い生地が縫える特別なミシンもアメリカから輸入して、ジーンズの委託生産を始めた段階だった。ちなみに、児島が「国産ジーンズ発祥の地」である由縁は、64年に始まった委託生産からマルオ被服、現在のビッグジョンが日本発のジーンズの生産、発売に乗り出し、65年に輸入素材での国産ジーンズ、次いで73年に純国産のMシリーズを完成させたことに端を発する。
「厚手の生地の縫製に関しては技術の蓄積のあった児島でしたが、実際にデニム生地を縫ってみるとこれが非常に手強い。帆布や紐作りで培った技術でいろいろ改良したんです。縫い上げた後も、このまま履くのはどうだろうということになり、履きやすさを考えて“洗い”の加工が児島で始まったんです。河原の石を拾って一緒にガラガラやって洗濯機を何台も壊すとかもありましたね。河原の石じゃダメだとなって、軽石を試してみたのが、ストーンウォッシュになって、それに塩素を含ませたのがケミカルウォッシュに。いまでは世界でも当たり前になっている加工技術も児島で始まったんです」
履きやすさのために生地をなめすための加工が、ジーンズのファッション性やバリエーションを広げた。日本に入ってきて間もないジーンズは、児島に着くやいなやそれまでになかった大きな変化を経験することになった。

 

技術だけじゃない!
児島がジーンズ作りに適している理由
「ジーンズの生産地も繊維業が盛んな地域もたくさんあったんでしょうけど、児島にはすべてがあった気がします。デニムという生地は本当に特殊で、むかしからの技術の蓄積と先人の知恵がものすごく役立った。木綿の普及で染織も盛んになりますよね。児島にも藍染めを行う紺屋さんがありましたし、日本で初めての民間紡績所もあった。児島は全部できた。集積地としての強みがあったんですよね」
「日本、児島でなければいけない」理由は、水にもあった。インディゴ染料と日本の水、この相性が深みのあるジャパンブルーを生み出すのだと言う。
「縦糸に使うインディゴ染料はアルカリの濃度によって、色ブレがすごく出てしまうんです。桶やタンクで染めていると、染めはじめのpH(ペーハー)が11でも、染めているうちにどんどん下がって、色が変わってくる。空気に触れると酸化するので、それも考慮したうえで、染め上げていく。デニムの染色技術自体は海外から来たものですが、細かくコントロールしてここまでこだわっているのは日本の強みです」
染めるという作業でも、中国で染める、ヨーロッパで、インドで染めたものでは、色味がそれぞれ違う。
「水の軟度、硬度もあるし、含有成分によっても違う。日本の軟水が合っているんです。リーバイスが最初のジーンズを作る前に日本が作ってたらどうなっていたか。モンペからジーンズが生まれていたら、日本が天下を取っていたでしょうね。それだけ好条件が揃っているんです」
日本、それも岡山の児島地域は、偶然なのか必然なのか、あらゆる面でジーンズ製造に最適な条件を備えた土地だったのだ。

 

日本でも市民権を得たジーンズ
世界へ打って出るメイド・イン・ジャパン
60年代に一般化の兆しを見せたジーンズは、70年代のベルボトム、80年代にはウォッシュ加工が流行し、一気に市民権を得ることになる。ちなみにファッションアイテムとしての価値を高めるのに一役買ったベストジーニスト賞は、84年から始まっている。90年代に入ると、ジーンズはそれまで以上に多様化することになる。海外ブランドのビンテージジーンズが高値で取引される一方、古着文化も定着、同時に国産ブランドの加工ジーンズ、デザイナーズブランドが高級ジーンズを売るという「なんでもあり」な時代が到来した。
「使う生地はデニムで、形はパンツと、デザイン的にあまりいじりようがなかったですからね。ただ、それまであまり進化のなかったジーンズが、90年代になって一気に動き出したんです。日本の有名デザイナー、ヨージヤマモトやタケオキクチがデニムを素材に服作りを考えはじめた。ビンテージもすごかった。1920年代のデッドストックの501XXが100万、200万で売れる時代です。ビンテージ古着を買い尽くした後は、レプリカですよね。なければ作ろうと」
90年代のジーンズ狂騒曲を経て、デニムとジーンズは日本人にとっても定番のカジュアルパンツになった。日本のジーンズ黎明期からジーンズを作り、下支えしてきた児島が、ブランディングとしてジーンズを打ち出したのは、2000年代に入ってからのことだった。
「2005年に愛知で行われた万博、愛・地球博の頃ですね。地域の特徴を生かした展示で、国産ジーンズ発祥の地としてアピールしたのがはじまりです。私が関わるようになったのはその2、3年後でした」
ここで、眞鍋さんの「どうせやるならジーンズをキーワードに街おこしを」というアイディアにつながる。とはいえ、ジーンズだけをことさら打ち出してアピールすることには反対の声もあった。
「児島はジーンズだけじゃない。学生服もあるし、作業服もある。帆布に足袋を作ってきた歴史もある。なぜジーンズだけやるんだと」
そんな声に眞鍋さんは苦笑いを浮かべながら反論したという。
「いや、なんでもよかったんですけど、わかりやすさを取るならジーンズだろうと思って。一般の人に訴えるならジーンズでいいんじゃないかなと思ったんです」
しっかりとした地場産業があっても、PR下手な街はいずれ寂れる。立ち行かなくなった商店街がシャッター通りと化す風景が日本のどこにでもある。眞鍋さんは、ジーンズを突出して打ち出すことで、児島の歴史、繊維業、技術を世界にアピールしようと考えた。児島の優れた技術ありきだが、商店街に観光客を呼び込む起爆剤になると反対を押し切った。
「日本は優れた技術があっても、発信下手なところがありますよね。奥ゆかしいというか、そこもいいとことではあるんですけど、相手に伝えないとなにも始まりません。知ってもらって、認知してもらって初めて価値が生きる。伝えて初めて相手の反応があるわけですから」

 

青は藍より出でて、藍より青し
本家越えを果たすジャパンデニム
ニームで織られたデニム生地がジェノバを経てアメリカでジーンズになり、日本に渡ってジャパンデニムに昇華された。荀子の「青は藍より出でて、藍より青し」ではないが、藍草で染めた布は藍草よりも鮮やかな青色を放つようになったのだ。
児島の風土と歴史、水が作ったジャパンデニムは、生地として海外の有名ブランドに指名買いされ、世界中のジーンズ職人から羨望の眼差し見られるものになった。
量販店に並ぶ海外製のジーンズは、色飛びや縫製が曲がっているものもある。ワークウェアとして定着したジーンズだが、日本ではハードワークに耐えるタフさを機能として持ったうえで、製品として完璧に仕上げるのが当たり前。
「日本人は着るものを大事にしますよね。だから作るほうも大事に作るんです。むかしからつぎはぎしてでもお下がりにしたり、着られなくなった着物も巾着に再利用したり、座布団にしたり布団袋にする。布を大切にする文化があるんです」
先人たちの創意工夫を受け継いだ児島のジーンズは、世界にその名を知られるようになった。
「海外の卸先は100店舗を超えました。ブランドの認知度はずいぶん上がりました」
ジャパンブルーの社長を務める眞鍋さんは、今後は実店舗を増やし、顧客との接点を作って行きたいという。
「作ったものをお客さんに早く渡したいんです。だからと言って、小売りが本業ではないので、開発もおろそかにできません。素材もファッション性もそうですけど、機能的にも優れた、人のためになるような洋服を作りたいという夢もあります」
児島で作られるデニムは、アメリカに学び、日本らしさを取り入れることで本家越えを果たした例とも言える。児島の地で育まれた“ジャパンブルー”は、これからも世界のジーンズ、デニムを牽引していくはずだ。

 

 

取材協力

株式会社 ジャパンブルー

「児島から、世界NO.1を目指して!!」と会社ロゴにもあるように、原料、縫製、デザインにこだわり抜いた国産ジーンズを製造。その代表格である「桃太郎JEANS」、メイドインジャパンのクオリティを広めるためにスタートした「JAPAN BLUE JEANS」ほか、「SOULIVE」「SETTO」といったブランドを手がける。

日本の国産ジーンズを世界に広めるために海外進出にも積極的で、桃太郎JEANSJAPAN BLUE JEANSを世界26カ国、のべ150店舗に展開。海外のファンも非常に多く、わざわざジーンズを買いに児島のお店を訪れる外国人も少なくない。

 

 

※本文内に含まれる情報は『JAPAN CLASS 第9弾』発売時(2016年12月刊)のものです。

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