粉×だしの絶妙コラボに外国人たちが狂喜乱舞!

「食い倒れの街」大阪の“台所”と呼ばれているのが、多くの人で賑わう黒門市場。以前は「プロ御用達の市場」「地元の人のための市場」という印象が強かったが、いまや外国偉人観光客も多数訪れる「食べておいしい」「見て楽しい」「買って嬉しい」“食のテーマパーク”と化しているのだ。
なかでも外国人たちの目を引いているのは、大阪が世界に誇る“コナモン文化”。たこ焼きにお好み焼き、うどん、餃子、肉まんと、手軽に食べられてしかもおいしいコナモンは、世界に誇る究極の食文化。というわけで、コナモン文化の歴史、大阪の食文化に根付いた秘密などを解明しつつ、コナモンが私たち日本人だけでなく、外国人を魅了してやまない理由を探っていこう。
取材に協力してくれたのは、日本における“コナモン”の知名度を飛躍的にアップさせ、広報や普及に務める日本コナモン協会。コナモンのスペシャリストの話を交えながら、恐るべき大阪のコナモン文化に迫る。

 

Text by Kazuki Otsuoka

 

コナモンストーリーの
はじまり、はじまり〜!

コナモンの魅力と秘密に迫る前に、コナモンとは一体なにを指しているのかを確認しておく必要がある。コナモンの定義を教えてくれたのは、日本コナモン協会の広報担当者。
「要するに、粉からできている食べ物のことです。小麦粉だけでなく、米粉、とうもろし粉、豆粉など粉をベースにしている食べ物はすべてコナモンです」
たこ焼き、お好み焼き、うどんくらいまでは、なんとなく把握していたものの、そばやパン、パスタも餃子も肉まんも、もしかしたらトルティーヤも全部コナモン……。この事実を知っただけでも、コナモンのポテンシャルがいかに高いかおわかりいただけるはずだ。
広報担当者によると、いまや全国区になった「コナモン」という名称は、もともとは大阪と、長野や九州のほんの一部だけで使われていた呼び名だった。2003年に誕生した日本コナモン協会は、涙ぐましい広報活動によって、10年以上かけてコナモンを国内の標準語に押し上げたのだ。
大阪ではお好み焼きもたこ焼きも、晩ご飯のメインとして扱われる。特にたこ焼きは、各家庭に常備されているたこ焼き器のおかげで、「お母さんが楽をしたいときに選ばれるメニューNo.1」の座に君臨する。金曜の夜は天ぷら、週末の夜は残った天かすでたこ焼きパーティー。大阪では、現在もこんなローテーションが日常化している。母はラクができて家族みんなが喜ぶ。生地でタコをくるむかのように、すべてが丸く収まるのがコナモンのアイドル、たこ焼きが愛され続ける理由だ。
こうした例を見るまでもなく、コナモン=粉もの文化の本場と言えば大阪!ということに異論を差し挟む余地はないが、では、なぜコナモン文化は大阪に根付いたのか? それにはもちろん理由があった。土地柄や地理的条件、積み重ねられてきた歴史にまで及ぶコナモンストーリーを紐解いていこう。

 

物資が行き交う「天下の賄い所」
多様な食文化がコナモンを育てた

江戸時代、大阪は「天下の賄い所」、「諸国之台所」と呼ばれた(一般的によく知られる「天下の台所」という呼び方は明治時代に幸田露伴の弟、幸田成友が大阪の歴史編纂のなかで用いたもので、これが広がった)。現代につながる食文化を含めた庶民文化は、天下太平の世が長く続いた江戸時代に形成されたことはよく知られている。幕府は大阪(当時は大坂)を交易の重要拠点ととらえ、水路を整えた。結果として、大阪にはあらゆる食材、物資が集まるようになった。
当時の各藩の収入源が年貢米だったことからもわかるように、日本の経済基盤は米が中心だった。交易の中心地で、米の売買が盛んな大阪には日本初の先物取引市場である堂島米会所が設置され、大阪商人は多くの特権を与えられた。
難しい話をなるべく避けて説明すると、天下の台所と言われた大阪には米をはじめとするさまざまな物資が集まってきた。当時全国の名産品を各地に運ぶ国内貿易を一手に引き受けていた西廻りの北前船も、大阪を発着点にしていた。
江戸は米が中心だったが、大阪には米だけでなく麦や塩、砂糖、油、昆布、木綿や薬などほかの都市では売買されないようなものが流通していた。
余談だが、当時の日本の中心は幕府のある江戸だったものの、都(みやこ)はあくまでも京都。大阪から江戸に物産を運ぶことを「下る」と言った。もちろん将軍のお膝元の江戸には、高価なもの、各地の名物が集められた。「下るもの」は価値が高く、「下らないもの」には価値がない。ここから「くだらない」という表現が生まれたという説もある。
大阪には、「下るもの」も、「下らないもの」も含めて、多種多様な食材が豊富に集まった。米一辺倒ではない豊かな食文化が“コナモン王国”になり得る下地になったのだ。ちなみに「コナモン」という名称が残っていた長野や、同じく小麦を主とするうどん文化が育った讃岐地方は、いずれも米の収穫が少なかったことで知られる。
コナモン文化が大阪に君臨した直接の理由と思われるのが、第二次世界大戦下と戦後まで続く米不足だ。終戦後、米の代用としてアメリから大量に支給された小麦粉に、多くの日本人は戸惑った。しかし、戦前から小麦粉を使った料理を食べていた大阪の人たちはこれをすんなり受け入れることができた。
小麦粉を使ったアメリカ風の食事を広めようと導入された「キッチンカー」なるものがはじめて走ったのも大阪だったという。キッチンカーは、ホットケーキやカレーライス、とんかつの普及に貢献したと言われている。
大阪には戦前から「一銭洋食」という現在のお好み焼きの原型のような食べ物があった。小麦粉にキャベツやネギを加えただけの食べ物だが、ソースをかけて食べるのはお好み焼きと変わらない。たこ焼きの元祖と言われるラジオ焼きや、だしたっぷりのかけうどん、かけそばなど、現在確立されている食べ物の「原形」を多く持っていた大阪だからこそ、米不足、小麦粉の供給によって、一気にコナモン文化が花開くとことができた。コナモン料理の魅力は、庶民的な手軽さ、安さ、食べやすさ。黒門市場ではコナモン片手に闊歩する外国人観光客が多い。彼らにとってコナモンは日本文化を手軽に感じられるファーストフードといった感覚なのだろう。

 

肝は「だし」や!
だしがあってこそのコナモン

コナモン発展の歴史を語るうえでもうひとつ欠かせないのが、「だし文化」の存在だ。
コナモンの普及に努める日本コナモン協会でも、「だしとコナモンはワンセット」ととらえ、「だしが命の大阪の食文化だからこそコナモンが自然に根付き、発展していった」と分析している。
だし文化の象徴が、醤油の塩味ではなく、だしのうま味で食べる大阪うどん。大阪では、少しの調味料を加えただしをかけて食べる、だしにつけて食べる、だしに浸すなど、だしをふんだんに使った食べ方が主流だ。
すでに紹介したように、北前船の発着地だった大阪には、北海道で積み込まれた昆布が大量にやってきた。この昆布をはじめ、鰹節、雑節、煮干しなど豊富な乾物を使っただしが、現在も俗に「関西風」、「関東風」と言われる味の違いに決定的な相違を生んだとも言われている。とくに昆布は、すべてのだしのベースになるだし文化の“基本のキ”。鰹節と合わせれば、鰹の味を2倍にも3倍にも引き出したうえで、昆布のさりげないうま味もしっかりと主張する。不思議なことに、鰹節を倍に増やしてもうま味は倍にならず、昆布と合わさることではじめて相乗効果が生まれるのだ。ほとんどの和食が、鰹と昆布の合わせだし前提で作られているのは、むかしの人たちが体感的に得た理に適った調理法なのだ。交易がクロスする大阪で成熟をとげただし文化は大阪から京へ、そして江戸へ、さらに全国へと徐々に広がっていった。
歴史的な背景に加えてもうひとつ、大阪を含む関西圏でだし文化が花開いた理由が“水”にある。日本は水の硬度が低い「軟水の国」として知られている。この軟水が、だしに使う鰹節や昆布の味を存分に引き出す。大阪の地下水の硬度は日本のなかでも特に低く、自然環境にもだしを存分に引き出せるお膳立てがあった。
一方で東京、つまり当時の江戸は、日本の中心として急スピードで発展を遂げた。元々の沼地、湿地帯を干拓で都市化したため、江戸の水はどうしても泥臭さが取れなかった。泥臭さを消すために使われたのが銚子で盛んに作られていた醤油だった。江戸の水も軟水なのだが、だしを引き出すよりも醤油の塩味で食べさせる調理法が当たり前になった。うどんやそばつゆに代表されるように、関西風=だし中心の薄味、関東風=醤油を用いた濃味、となったのにはこんな理由があるのだという。

 

世界が注目するUMAMI(うまみ)も
軟水が生んだ“だし文化”の賜物

日本の水、とくに大阪の水が軟水だったのは天の配剤によるものだが、その環境を最大限に活かし、食文化にまで昇華させたのは、日本人、大阪人の、素材の魅力を引き出す努力あってのことだ。繊細で芳醇なだしの味や香りは、フランス料理をはじめとする世界中のシェフたちから注目を集めている。
だしに含まれる“うま味”を発見したのはなにを隠そう日本人だった。西洋文化に基づいて研究が進んでいた時代は、人間が感じられる味覚は「酸味」、「甘味」、「塩味」、「苦味」の4種類だけとされていた。そこに5番目の味覚として新たに加えられたのが、東京帝国大学(現在の東京大学)の池田菊苗教授によって発見された「うま味」だった。発見されたと言っても、一般家庭でもだしを取ることが普通だった日本では、「だしの味」が料理に深みを与えることは広く知られていた。それを科学的に証明したのが、昆布に含まれるグルタミン酸がうま味を形成しているという池田の発見だった。
ついでに紹介すると、鰹のうま味がイノシン酸であることを発見したのは池田の弟子である小玉新太郎、しいたけなどのキノコのうま味成分がグアルニ酸だと解明したのは、当時ヤマサ研究所にいた国中明。現在では、三大うま味成分と言われるグルタミン酸、イノシン酸、グアニル酸を食材から抽出し、うま味のメカニズムを突き止めたのは、いずれも日本人だったのだ。
フランス料理にも仔牛から取ったフォン・ド・ボーやブイヨン、コンソメのようなだしがあるが、それ自体の味は主役になり得ず、塩味や甘味、酸味を補完する調整役として使われていた。数多くのスープ料理を生んだフランス料理、肉、魚、野菜からとったブロードというだしを使って料理を作るイタリア料理にも、だしが主役という考え方は見られない。日本の軟水に対して、硬水が主流のヨーロッパでは、だしのうま味だけを味わうことはできなかった事情もあり、日本とは別の方向に発展していった。だから池田がうま味の存在を主張した当初は、多くの西洋の科学者はその存在を疑ったという話が残っている。水の違いが人々の味覚を左右し、食文化の発展の方向を変える鍵まで握っているとは、このときは世界中の誰も気がついていなかったに違いない。
いまやUMAMI(うまみ)は世界の共通語。ミシュランで星を取るようなトップシェフがこぞって注目するまでになった。2013年にユネスコ文化遺産に登録された「和食」が世界で評価されているのも、だしあってのことだ。
ちなみに、うま味の発見者、池田菊苗は、京都生まれで、大阪に住んだこともあるバリバリの関西人。子どもの頃から慣れ親しんだ昆布だしに興味を持ち、湯豆腐のだし昆布研究をはじめたというから、この池田の世紀の大発見も、大阪のだし文化あってこその産物と言っても過言ではない。

 

だしとツッコミに鍛えられた?
コナモンが人々を惹きつける理由

京都の着倒れ、神戸の履き倒れ、大阪の食い倒れという言葉があるが、大阪の食い倒れは、単なる“食い”倒れではなく橋が多かったことから“杭”倒れでもあったという説もある。豊かな水、その水に育まれ、昆布やだしに出会うことで発展していった大阪の食文化は、近世になって、さらに磨かれていく。
大阪の食べ物屋はレベルが高い。それは料亭やレストランなどの高級店であっても、庶民が足繁く通う店にしても同じこと。その秘密のひとつが、店主と客との人情味溢れるボケとツッコミのコミュニケーションにある。
「なんや今日のうどん、ちょっと渋いんちゃうか」
「お前の舌がボケとんや、アホ」
お客と店側の立場の違いを感じさせない、こんな会話が行き交う日常で、食べる人と作る人が切磋琢磨していった。“大阪の味”は、ボケとツッコミ、客と店主の軽快なコミュニケーションによって作られ、磨かれていったのだ。

偉大な軟水と、水によって引き出された繊細で芳醇なだし。そして、だしの相乗効果で2倍にも3倍にも価値が高まったコナモン。すべてがマッチングした奇跡が生んだのが、大阪発祥のコナモン文化というわけだ。

 

 

※本文内に含まれる情報は『JAPAN CLASS 第6弾』発売時(2016年8月刊)のものです。

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